笑ってる僕の隣にはいつも君がいた

2月3日、節分の日。

季節の分け目。これまでのあれやこれやを振り返るべく、久しく執っていなかった筆を執ることにしました。明日は、立春だから。

 

 

と書き始めたはいいものの、気がつけば日を跨ぎ、暦の上では春になってしまいました。

そう、次の春です。

 

 

エイトをアイドルとして認識したのは2005年。クラスに転校してきたYちゃんの影響だった。私の人生における第1ジャニオタのYちゃんは、内くんのことが大好きだった。授業中にこっそりやり取りする手紙、ノートの端やポスカの本体、プリクラの落書き…至るところに ぴろき♡ の文字を掲げる彼女と仲良くなったことで、私がエイトとNEWS、You&JのよしみでKAT-TUNについての知見を深めていくことは自然な流れだった。

それまでの私の中のジャニーズはというと、エイトを含めそれ以前のデビュー組を人並みに知っているだけで(KinKi Kidsはデビュー時から聴いてはいたけど)、キャーキャー言う対象でも無ければ、彼らの全国ツアーにあわせて我も全国をツアーするような存在でも無かった。

そう考えると、自分の人生を振り返った時にジャニーズとの出会いはとても大きなものであることに違いはないけれど、Yちゃんとの出会いこそが全ての始まりだったのだ。そんなYちゃんもまさか私が現在進行形でジャニオタをしているとは夢にも思うまい。もし私がA-studioに出ることがあれば彼女に会いに行ってほしい(藤ヶ谷さんでお願いします)。

 

 

話をエイトに戻す。

Yちゃんから見事な刷り込みを受け、私はオタクへの道を順調にスキップしながら進んでいった。MDに感謝=∞やF•T•Oを入れてもらい、隙を突いては兄のコンポで繰り返し聴いた。初めて友達とカラオケに行った時に歌ったのは果テナキ空だった。月1000円のお小遣いの中から毎月Myojoを買った。ヨコヒナのレコメンが楽しみで木曜日が一番好きだった。メンバーが来るスペシャルウィークはカセットテープに録音したし、高校受験前も勉強してるフリをしてレコメンを聞いていた。

 

当時はまだ周りでエイトを好きな人はYちゃんしかおらず、芸能人で誰が好きかを聞かれても、胸を張って彼らの名前を出すことができなかった。多少の恥ずかしさがあった、ごめんね。

 

エイトのライブに初めて行ったのが、2007年9月17日。47都道府県ツアーの46箇所目、アリーナ公演最終日だった。元々行ける予定では無かったけど、当日に友達から「1人行けなくなったからどう?」と連絡が入り、お邪魔させてもらった。チケット代は親に借りたと思う。

その日亮ちゃんはよく分からない服を着て、よく分からないソロ曲を歌っていた。後に斉藤和義歌うたいのバラッドという曲だったことを知り、これが私とせっちゃんとの出会いとなった。

9月11日に23歳を迎えたやすくんのお誕生日をお祝いした。プレゼントを嬉しそうに抱える姿や、ケーキに顔面ダイブして美味しい〜と喜ぶ姿を見て、なんて可愛いひとなんだと思った記憶がある。プレゼントである9000mlのシャンパンのデカさに当時高校生の私はギャグだと思っていたが、いまのやすくんを考えると普通に飲めてしまうのでは…と若干の恐怖を感じている。

 

初めて生で見るエイトのライブは、ただただ楽しかった。たくさん笑って、元気が出た。DVDで観るよりも何万倍も元気をもらえた。

 

そこからは毎年ツアーに行った。

2008年、謎に春夏に2度ツアーをして、謎に円盤化されなかった。あんなに楽しかったのに。宗佑が椿くんを押し倒したから…??

この年のユニット曲はどれも秀逸だったから、シングルの特典映像にそれが収録されてからは登校する前にその3曲を観て学校に行っていた。いま思うと毎朝desireを再生する精神が心配ではあるが、あの頃は心の拠り所は完全にエイトだった。

 

2009年、初めて県外の公演に行(かざるをえなくなったため行)った。単独カウコンにも行きたかったけれど許されない家庭だったので、友達の好意で他のクラスのあまり話したこともない同級生にグッズをお願いさせてもらった。ブランケットを頼んで迷惑極まりなかったと思いますあの時はごめんなさい。

 

2010年、パッチに入るまでのワクワクした日々も楽しかった。その頃の私は携帯がパケ放(死語)ではなかったから、親が寝静まった後に夜な夜な家のパソコンを開いてサイトの動向をチェックした。早く、早く彼らに会わせてほしいと苦しみもした。そして体感としてはこの頃からチケットが取れにくくなったように思う。(カウコンは別として)

友達の運に感謝し、ようやく会えたエイトはとにかくかっこよくて、こんなにかっこよかったんだって思った。感想薄っ。

 

2011年、ドームツアー!福岡のドームにエイトが来てくれて嬉しかった。上空を飛んでいくすばるをアリーナから見上げながら遠くに行ったな〜って思いもした。MCはメンバー間でのチューの話ばかりしてた。これがエイトだ。

 

2012年、8周年の年。∞祭に1人で行った。友達と申し込んだ方ははずれ、初めての1人での遠征。5グループのうちまずは物販のグループだったので、ライブが始まる前に買ったばかりの Dear Eighter をベンチで読み、ひとりでボロボロ泣いた。見るからに危ない人だったと思う。10:40からという朝早い時間からのライブであるにも関わらず短い時間に最高がぎゅっと詰まっており、渋谷すばるがいる限り関ジャニ∞から離れることはないと確信した。個人ブースは錦戸さんの列がエグくて他の人を見て回る時間はなくなってしまった。16:30からのトークはたたいてかぶってじゃんけんぽん(大当たり!)で腹抱えて笑いながら泣いた。自分がこんなに関ジャニ∞のことを好きだと知らなかった、ということを知った日だった。

8ESTは台風で中止となった長居に行くはずだった。許すまじジェラワット(平成24年台風17号のアジア名)。実習先の打ち上げに参加したその足で夜行バスに乗る予定だった為、半泣きでバス会社にキャンセルの電話を入れた。打ちひしがれ、打ち上げの記憶は無い。彼らと打ち上げ花火を見たかったのに。家を出る時はあんなにわくわくして持って行った荷物が、帰りはとても重く感じた。

その後アリーナ公演には入ることができたし、長居に来る予定だった人へと京セラドームにも入れてもらえた。結果として楽しい8周年だった。ジェラワットのことは一生忘れんけど。

 

2013年、オタクとしては落ち着いた時間を過ごしていた。現場が無く、自分自身新しい交友関係が広がったことでエイトから遠ざかりつつあった。が、

2014年、年明けにJUKE BOXがあり、やっぱりエイトは楽しい!の記憶を呼び起こした。ふんどしの力はすごい。

夏の十祭。どえらい楽しさでどうかなりそうだった。チケットの取引があるのに現地で携帯が壊れて死ぬかと思ったこととか、グッズ並ぶの暑いだるいもうやだ帰りたいって思ったこととか、公演中に近くの席の人達が興味ないユニットで笑いながらたこ焼き食べ始めたので蹴り飛ばしたくなったこととか、色々あったけど、もう楽しすぎて。

 

初日のすばりょのkicyu、人生であんなに叫ぶことは後にも先にもない。死ぬ前にもう一度見せてほしい。現代では網膜に直接映像を映すことができるらしいから、どなたか私の網膜にも映してください、あの気まずいを。お心当たりのある方はご連絡ください。遺産と遺言を準備しておくので。

 

それ以降は金銭的な余裕も生まれたことで、ツアーがあればあちこち飛び回るオタクに成長した。文字通り全国ツアーだ。チケットを持たずに遠征することもあったし、会場の前に立って譲ってもらったことも何度もある。人のあたたかさに泣いた。

mixiとは別れを告げ、Twitterを通してできた友人と連番したり、居住地の全く異なる友人と現場で会い「また来週○○で〜!」とフッ軽な挨拶を交わしたりした。楽しかったな。

 

いつからか、関ジャニ∞のことが好きだと声に出すことに恥ずかしさを覚えなくなり、「いいよね、関ジャニ面白いよね!」と言ってもらえるようになった。彼らが面白くて陽気な関西人ってだけではないことをeighterは知っていたけど、それが少しずつ、世間にも知られるようになった。名だたる面々から楽曲を提供され、様々なタイアップに使われた。バンドとしての実力も認められ、今ではフェスにも呼んでもらえるようになった。すごいことだ。

 

 

でももう私の愛した人はそこにはいない。

すばるがいる限り関ジャニ∞から離れない、そう自分に誓いを立てた日から何度か季節が巡った春。渋谷すばる関ジャニ∞とジャニーズから離れることを告げられた。意味が分からず、何も考えられなかった。納得できなくて、寂しくて、受け入れるしかないけど受け止めきれなくて。関ジャニ∞を見ることも聞くこともできない日々が続いた。

関ジャニ∞を知っていくにつれ、いいなあこういう人と結婚したいなと思っていたのはすばるだった。担当という言い方をすばるが嫌うから、○○担と名乗ることはしないようにしていた。だいすきなすばるのいない関ジャニ∞なんて想像ができなかった。

(もしかしたらフォロワーさん以外の方の目にも留まるかもしれないので補足すると、私はいわゆる錦戸担です[便宜上担当呼びを使うことにする]。渋谷すばると結婚したい錦戸担、です。)

 

すばるが関ジャニ∞でなくなる前にどうしても気持ちを伝えておきたくて人生初のファンレターを書いた。中高生の頃ノートに何度も書いたはずの渋谷すばるの文字も、本人の手に渡るのかもしれないと思うと緊張して上手く書けず悔しかった。

2018年7月、7人では最後となる関ジャムの日。これだけは絶対にリアルタイムで観なければと緊張しながらテレビの前で構えた。亮ちゃんのジョンとポールとまではいかないけれど、のコメントに泣き、セッションで号泣した。これまでテレビを観ながらこんなに泣いたことがあったかなっていうくらい、ひたすら泣きながらLIFEを聴いた。

その後すぐに始まった6人でのツアーは初日の北海道へ飛んだ。やすくんの怪我も心配だった。オープニング映像から泣き、6人が登場して泣き、終始泣いていたと思う。ステージに立って踏ん張ってる6人の姿に涙が止まらなかったし、どうしたってそこにいたはずの人のことを思ってしまった。キングオブ男!に号泣する日が来るとは思ってもみなかった。寂しさは消えないけれど、6人での関ジャニ∞と共に生きていこうと思ったツアーだった。

 

2019年、十五祭。エイトの祭はやっぱりめちゃくちゃ楽しかった。∞o'clock 19でぶち上がったし、まさかの34歳のアイスクリームに悲鳴を上げた。死ぬ前にもう1回見たかった二人の花も見られて、だいすきな蒼写真をトイピアノ付きで歌ってくれた。これから先もこの景色を見ていたいなぁって、ひとつのうたを歌いながら思っていた。

最後になんてするつもりはなかったけれど、もしこれが最後になっても後悔しないように、初めて5大ドーム全てをまわった。当時漂っていた不穏な空気に、信じたくない気持ちを持ちつつ、最後になる可能性がゼロではないと考えてしまう自分もいた。

 

錦戸亮退所のお知らせを受け取ったのは、十五祭最終日の2日後のことだった。多少の心の準備はしていたものの、既に6人での最後を迎えていたという事実をそう簡単には飲み込めなくて、仕事終わり泣きながら歩いて帰った。そんな中で見た5人の動画に私はもうこっち側にはいられないなと思った。関ジャニ∞はこれから先も続いていくこと、立ち止まらずに5人で歩んでいくこと、それを示すのはファンに安心してもらうために必要なことだ。でもそれが私には余計に寂しく感じてしまった。47都道府県ツアーでみんなに会いにいくよと言ってくれているのに、置いてけぼりに感じてしまった。寂しかった。わがまますぎる。そんな自分にがっかりして、もう純粋な気持ちでeighterを名乗ることはできないと区切りをつけた。彼に向けられた裏切り者という重い言葉を私は抱えられなかった。

9月30日24時、ジャニーズの錦戸亮に別れを告げたかと思えば、10月1日0時1分には爆速でスタートダッシュを切る錦戸亮がいて笑ってしまった。いやいやもはや歩き出したとかいうレベルではなく、めちゃくちゃ走り出しとる。せっかちが過ぎるだろと思いながら、安心してる自分もいて、こういうことなんだなと腑に落ちた気がした。後に亮ちゃんは、ゆっくりする為にジャニーズを辞めたわけじゃないと言っていて、亮ちゃんらしいなと思った。

5人になってからはお茶の間から見ていたけれど、関ジャニ∞のお祭り大好き人間として十八祭には行っておきたくて、思い出の長居に足を運んだ。楽しくて楽しくて、泣きながら笑った。冬のドームもご縁をいただけて、泣きながら結局は笑った。

そんなこんなの日々だった。

 

楽しいを何倍にもしてくれる関ジャニ∞が好きだった。辛いことも笑い飛ばしてくれたし、時にはいっぱい泣かせてくれた。たくさんの感情を共有し、かけがえのない友人とも出会わせてくれた。嫌いな飛行機に乗るようになったり、宿を取ったりできるようになった。関ジャニ∞のおかげだ。

高校受験も大学受験も、家にいたくない時も何気ない日々も、関ジャニ∞が頑張る理由になってくれた。関ジャニ∞に会うために頑張り、関ジャニ∞に会ったから頑張ってこられた。笑ってる君の隣に僕はいたくて、頑張ってきた。

 

関ジャニ∞と共に、人生があった。

 

最高で最強の関ジャニ∞、その言葉が好きだった。ライブの最後、大切な友人や見ず知らずの人と手を繋ぎ、両手を振り上げながら関ジャニ∞の名前を叫ぶ瞬間が大好きだった。

新しい季節、新たな名前で歩み始める5人の未来が明るいものであるよう願うと同時に、5人は自分たちで照らしていくだろうと信じています。

 

ありがとう関ジャニ∞。大好きでした。

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